三軒茶屋の歴史
地名の由来(江戸時代)
三軒茶屋の名前の由来は江戸時代中期にまで遡ります。当時、神奈川県丹沢の大山阿夫利神社への「大山詣(おおやままいり)」が江戸市民の間で大変流行していました。
この「大山道」(現在の世田谷通り)と「登戸道」(現在の国道246号)の分岐点(追分)付近に、以下の三軒の茶屋が並んでいたことから「三軒茶屋」と呼ばれるようになりました:
- 信楽(しがらき) - 後に「石橋楼」という旅館になる
- 角屋(かどや)
- 田中屋(たなかや)
この呼び名は文化・文政の時代(19世紀初頭)には既に一般的なものとなっていましたWikipedia。
江戸時代の賑わい
江戸時代中期以降、社寺参詣ブームによって大山詣が盛んになると、三軒茶屋は江戸時代のサービスエリアのような存在でした。多くの参詣者が茶屋で休憩し、道中の情報交換を行う重要な中継地点として機能していました。
近代以降の発展
明治時代:軍隊の街
明治後期になると、三軒茶屋周辺は**「軍隊の街」**としての性格を持つようになりました (三井住友トラスト不動産
大正時代:玉電の開通
**1907年(明治40年)**に「玉川電気鉄道(玉電)」が渋谷・玉川(現・二子玉川)間で開通し、三軒茶屋は交通の要衝としてさらに発展しました三井住友トラスト不動産。
玉電は「大山道」上を通る路面電車で、多摩川の砂利輸送も行っていたため「ジャリ電」とも呼ばれていました。
昭和時代:正式な地名化
**1932年(昭和7年)**の世田谷区成立時に、「三軒茶屋」が正式な地名として定められましたWikipedia。
現在への継承
現在でも、江戸時代の茶屋の名残を見ることができます:
- 田中屋:「田中屋陶苑」として当時とほぼ同じ場所で営業継続
- 信楽跡地:現在はカラオケ店となっているが、駅入口脇に「大山道」の道標が保存されている
- 大山道:現在の世田谷通りとして主要道路の役割を継続
三軒茶屋は、江戸時代の茶屋文化から始まり、明治の軍隊の街、大正の玉電開通を経て、現在の「オシャレな街」「住みたい街」として発展を続けている、東京でも特に歴史の重層性を感じられる街の一つです。